売場の写真撮影はお断りさせていただいておりますので、予めご了承下さい。
「写真(動画)撮らせてください」と、お声掛けいただけるのは(まだ)ありがたいですが、売場の撮影をお断りすると商品も見ず、飲食もぜずさささと帰っていく。「撮影目的」の来店というのは、やはり違うと思うし、個人のお店でそれやるならお店に通って関係作らないとあかんと思います。撮っても減らないけど、ここは無償の公共サービスや慈善事業としてやってる訳じゃない。自分が撮れたら何でもいいという発想はどこからくるのだろうか。
お店でのマナーについていえば、先ずは郊外型の大型店舗ができたことで価値観が変わってきたと思う。利便性が高く設備が整っており、人同士の距離感も保てるから、自分の行動やふるまいについて気にする必要がほぼ無いし、お子様連れのお客様も助かる・・・ただそれに慣れて同じような感覚でウチの店に来ても「ちょっとちょっと」ってなる訳です。(郊外型の大型店舗でもそれぞれのお店入って動画撮ってたら怒られるとは思うけど)
こうやって工事やりながら連休期間中にかろうじて開いてるしょぼい店でも、大袈裟にいえば「店のない街なんてつまらない」「郷土の景色を作っている」「民藝って何だろう」とそんなプライドをもってやってる訳ですが「下に見られてる」と感じることもしばしば。お店だけやってるとそうでもないけど、お店以外の仕事をしていると、メールひとつにしてもそう感じることが多い。自分は特別だという意識だろうか、常に安全圏にいて挫折や痛みを知らない人は、どこか上からものを言う感じがあってその自覚もない。「ナチュラルに上から」と言えばいいか。仕事は人格の形成に関与する割合がきっと高いし、自分のお金で事業をしている人と、組織のお金を使う役割の人とでは体験する世界が違う。組織の金、人の金を使っているうちはバーチャルなゲームと変わらないと僕は思う。(僕もそうでした)それが悪いことではないけど本質的に痛くない。もちろん痛い人が偉いわけでもないし、どちらでも構わないがリアルが解る人と、解ってると勘違いしてる人の両者が一緒に仕事をするのは大変。そして責任なく使うだけの人は何かが欠落してる。クリエイティブ(風)だけ気持ちよくやってると、相手に対する想像力を失うのだろうか、それは「上から」であってクリエイティブでも何でもない。僕の場合は「人ができないことをやってる」ことについてリスペクトがないと力が出ないし、約束を守らずコソコソしてる行政職員は心底嫌いだ。
撮れたらいいも、上からの物言いも、この店と共に成長してゆく人じゃないから来なくていいと、こんなことを書いていると、独立から11年経過するのに自分が全く成長してない気がしてしんどくなるけど、今日も命を賭けて商売をしています。またいつか、なりたい自分になるための、痛い痛い。
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